花見はいつから始まった?桜を見る習慣の由来
桜を眺めて楽しむ花見は、平安時代には貴族の行事として行われていました。812年(弘仁3年)には、嵯峨天皇が京都の神泉苑で桜を観賞し、詩を作る宴を催した記録があります。その後、武士の盛大な花見を経て、江戸時代には庶民も弁当を持って出かける春の行楽として広まりました。今の花見は、長い年月をかけて形づくられた習慣なのです。
奈良時代の貴族が好んだ花は梅だった
今は「花見」と聞くと桜を思い浮かべますが、奈良時代の貴族にとって、春の花といえば梅も大切な存在でした。中国から伝わった文化の影響が強く、梅の美しさを歌に詠んだり、花を眺めたりしていました。
当時の歌を集めた『万葉集』には桜を題材にした歌もあります。平安時代になると、宮廷で桜を愛でる文化が広まり、その存在感が大きくなっていきました。
農林水産省は、桜が日本に古くから自生する身近な木であり、平安時代に桜を愛でる気運が高まったと説明しています。桜を題材にした和歌も増え、春を表す花として親しまれるようになりました。
812年、嵯峨天皇が桜の宴を催した
桜の花見の歴史を考えるうえで、よく挙げられるのが平安時代の嵯峨天皇(さがてんのう)です。京都市によると、812年に嵯峨天皇は神泉苑(しんせんえん)という庭園で、桜を眺めながら詩を作る宴を催しました。
神泉苑は、794年の平安京造営のときに宮中の庭園としてつくられた場所です。天皇や貴族が集まり、池の景色や季節を楽しむ行事が開かれていました。812年の宴は、記録に残る初期の桜の花見として知られています。
当時の宮廷では、こうした催しを「花宴(かえん)」と呼んでいました。桜を眺めて詩を詠むのが中心で、家族や友人と弁当を広げる現在の花見とは楽しみ方が異なります。
ただし、812年に初めて誰かが桜を見て楽しんだ、という意味ではありません。分かるのは、少なくともこの時代に、桜を観賞する宮廷の宴が記録されているということです。
武士の時代には盛大な花見も行われた
平安時代の貴族に親しまれた桜は、その後、武士たちにも楽しまれるようになります。特に有名なのは、豊臣秀吉が1598年(慶長3年)に京都の醍醐寺で開いた「醍醐の花見」です。
醍醐寺に残る記録によると、秀吉は花見のために畿内や吉野から約700本の桜を移し、建物を整えるなど大がかりな準備を進めました。宴には家族や多くの関係者が集まり、一日をかけて桜を楽しみました。
花見のときに詠まれた和歌の短冊も醍醐寺に残っています。桜を見ながら歌を詠む習慣が、身分の高い人々の特別な催しとして引き継がれていたことがうかがえます。
江戸時代に庶民の春の行楽として広まった
現在のように、たくさんの人が桜の名所へ出かけ、飲み物や食べ物を楽しむ花見が広まったのは江戸時代です。江戸東京博物館は、親しい人と飲食を共にする花見が庶民に広く浸透したのは、この時代だったと説明しています。
花見客が集まる場所には、もともと桜の多い寺や神社などがありました。さらに、江戸幕府8代将軍の徳川吉宗は、18世紀前半に飛鳥山(現在の東京都北区)や隅田川の堤、小金井堤などへ桜を植えさせました。こうした場所が花見の名所になり、江戸の人々が出かける機会が増えていきました。
江戸時代には花見の料理を楽しむ文化も育ちました。農林水産省によると、江戸時代後期の料理本『料理早指南(りょうりはやしなん)』には、花見弁当の献立が紹介されています。現代の花見でお弁当を食べる楽しみは、江戸時代の行楽文化ともつながっています。
昔の花見で見ていた桜はソメイヨシノ?
今、多くの桜の名所で見られる「ソメイヨシノ」が、平安時代から花見に使われていたわけではありません。農林水産省によると、江戸時代まで花見の中心だったのは、山などに自生するヤマザクラでした。
ソメイヨシノは江戸時代の終わりごろから明治時代の初めにかけて生まれたと考えられる品種です。明治時代以降に全国各地へ植えられ、今ではよく知られる桜になりました。
桜を見る習慣そのものは古い一方、花見の場所や桜の種類、楽しみ方は時代によって変わってきました。平安時代の詩の宴と、江戸時代の弁当を持った行楽の両方が、今の花見につながっています。